History of Honduras
ホンジュラスの歴史
ホンジュラスの歴史
サンセバスチャン教会のオオミチバシリの絵
Iglesia San Sebastián, San Sebastián Colosuca, Lempira
ホンジュラスの歴史は大きく分けて、「先住民時代」「植民地時代」「連邦共和国時代」「近代・バナナ共和国時代」を経て「現代」に至ります。
それぞれの時代には、その特徴を象徴する建物や文化、出来事があり、今もその名残が国のあちこちに受け継がれています。んなホンジュラスの歩みを、ここではやさしく、そして簡潔にふり返ってみましょう。
歴史を少しのぞいてみることで、この国の背景や魅力を「新しく発見」できるかもしれません。
現在のホンジュラスにあたる地域には、複数の先住民族がそれぞれの社会を築き、独自の文化や伝統を育んでいました。特に西部のコパンは古代マヤ文明の重要都市で、5世紀ごろに王朝が成立し、7〜8世紀に最盛期を迎えました。高度な彫刻や碑文文化は、王の権威や宗教的な儀式を表現する文化として発展しました。
一方、西部以外でも先住民の集落や都市が存在し、交易や信仰の中心として栄えていました。 ただし、建築や彫刻の規模、文字記録の豊富さでは、コパンが他の地域を大きく上回っていました。
9世紀頃にコパンをはじめとするマヤ都市が次々と衰退した後も、現在のホンジュラスには多様な先住民社会が残り続けました。西部ではレンカ族(Lenca)が山岳地帯に定住し、農耕と信仰を中心とした生活を築きました。他にも様々な民族が独自の言語と文化を育み、交易を通じて近隣地域とつながっていました。
その後1502年にコロンブスがホンジュラス沿岸に到達し、1524年からスペインの本格的な征服が進みます。征服時はレンカ族の「首長レンピラ」が西部で抵抗を率いましたが、1537年にスペイン軍により鎮圧され、やがて現在の国土全域が植民地支配下に組み込まれていきました。
コパン遺跡
Ruinas de Copán, Copán Ruinas, Copán
コロンブスの到来以降、ホンジュラスはスペインの支配下に入り、やがて「ヌエバ・エスパーニャ副王領(Virreinato de Nueva España)」の一部である「グアテマラ総督領(Capitanía General de Guatemala)」に属する地域として位置づけられました。
スペインは統治の拠点づくりのために、都市整備やプランテーション経営、そしてキリスト教の布教を進めました。その影響で、今でもスペイン統治時代の都市計画の名残や、バロック様式の教会・建築物が多く残っています。
ホンジュラスでは金や銀の鉱脈が多く発見され、鉱業が盛んに行われました。現在の首都テグシガルパ(Tegucigalpa)も、先住民語で「銀の丘」を意味しており、鉱山の町として発展しました。一方で、先住民は労働力として酷使され、征服者やスペイン系移民に富が集中する構造が長く続きました。
やがて1810年代に入ると、グアテマラやエルサルバドルで独立運動が高まり、その流れの中でホンジュラスも1821年9月15日にスペインからの独立を宣言しました。 ただし、ホンジュラス国内では大規模な独立運動は起きておらず、実際には周辺地域の動きに合わせて独立が進んだとされています。
カルバリオ礼拝堂
Ermita el Calvario, Belén, Lempira
スペインからの独立後、ホンジュラスは一時的に「第一メキシコ帝国(Imperio Mexicano)」に組み込まれました。1822年には中米代表機関が併合を支持する決議を出しており、実質的には強い圧力のもとでの併合と言えます。
しかし併合政体が統治を進める中で、自由主義・地域自治を求める動きが高まり、1823年7月1日にはグアテマラ、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカ、ホンジュラスの5つの州によって「中央アメリカ連邦共和国(República Federal de Centro América)」が成立しました。
しかしやがて連邦共和国内でも「自由主義派」と「保守派」が衝突し始めます。その中、ホンジュラス出身の自由主義指導者、「フランシスコ・モラサン(Francisco Morazán Quezada)」は1829年にグアテマラシティで保守派を制圧し、1830年には連邦大統領となりました。教育改革・政教分離などを推し進めましたが、保守派の反発と1837年のコレラ流行および政治混乱により連邦体制は揺らぎ始めました。
結果として、ホンジュラスは1838年10月26日をもって連邦からの脱退を宣言し、国家としての独立を確立しました。1839年には連邦としての機能が事実上消滅しました。
カイキン市役所前
Alcaldía de Caiquín, San Marcos de Caiquín, Lempira
連邦共和国から脱退したのち、ホンジュラスは独立国家として歩み始めました。ただし道のりは平坦ではなく、旧都コマヤグアと、鉱業で勢いを増したテグシガルパのあいだで首都をめぐる対立が続きました。一時は「一年ごとに首都を交互に置く」という案が出るほど解決の糸口が見つかりませんでしたが、最終的に1880年にテグシガルパが首都と定められました。
連合国の構想は残り、1896年にはエルサルバドル、ニカラグア、ホンジュラスの3国で「大中央アメリカ共和国(República Mayor de Centroamérica)」が発足しました。しかしこの連合は2年後の1898年に解体し、各国は再びそれぞれの道を進むことになります。
1900年代に入ると、アメリカの企業が北部の沿岸地域に広い土地を買い取り、バナナの栽培を始めました。 鉄道や港の整備も進み、バナナはアメリカへ大量に輸出されるようになります。しかしその裏では、外国企業がホンジュラス政府に強い影響力を持つようになり、政治や経済の主導権が次第に外資に握られていきました。政変の裏で企業が動いたり、政府が外国企業の利益を優先することもあり、国としての独立性が失われていったのです。
こうした状況を当時の人々や作家たちは皮肉をこめて「バナナ共和国(República Bananera)」と呼びました。この言葉には、経済を外国資本に依存し、政治がその影響下に置かれた苦い歴史という意味が込められています。
パイナップルの路上販売
Gracias, Lempira
ホンジュラスは第一次・第二次世界大戦の際、いずれも連合国側として宣戦布告を行いましたが、実際に出兵することはありませんでした。当時、ホンジュラスの工業化が中米諸国の中でも遅れていたことが、その一因とされています。
戦後には貿易摩擦や国境問題、移民問題が深刻化し、特にエルサルバドルとの関係が悪化しました。1969年6月、サッカーワールドカップの予選をきっかけに両国の緊張は一気に高まり、試合後にはホンジュラス国内でエルサルバドル人への襲撃事件も発生。6月26日にエルサルバドルが、翌27日にはホンジュラスが国交を断絶し、7月14日にいわゆる「サッカー戦争」が勃発しました。この戦争はわずか100時間後の7月19日に停戦となりましたが、両国で2,000人以上の死者を出す悲惨なものとなりました。皮肉なことに、戦後のホンジュラスでは一時的に国家としての誇りや結束が強まったとも言われています。1980年にようやくエルサルバドルとの国交が回復し、現在では中米諸国の間に大きな対立は見られません。
1998年にはハリケーン・ミッチ(Huracán Mitch)が襲来し、ホンジュラスを含む中米各国に甚大な被害をもたらしました。この災害ではホンジュラス国内だけで約7,000人の死者が出たとされ、その爪痕は今も国の各地に残っています。
現在に至るまで、ホンジュラスは度重なる政変や自然災害などの困難に直面してきました。それでも少しずつ社会を立て直し、人々の力で未来を築いてきました。 今日のホンジュラスは、かつての苦難を乗り越えながら、文化・自然・人の魅力を通して新しい未来を築こうとしている国です。
フアナ・ライネスの丘公園
Parque Cerro Juana Lainez, Tegucigalpa, Francisco Morazán