Descubrir Gracias
古都「グラシアス」特集
古都「グラシアス」特集
「グラシアス(Gracias)」という名前は、スペイン語で「ありがとう」を意味します。征服軍が山岳地帯でなかなか平地を見つけられず、数日間探し続けた末にこの地へ辿り着いた際、「神さま、ありがとうございます!」と口々に叫んだことが由来とされています。そのため当初は「グラシアス・ア・ディオス(Gracias a Dios)」、すなわち「ありがとう神さま」とこの場所は呼ばれていました。
この町は、1536年にスペイン人征服者フアン・デ・チャベス大尉(Juan de Chávez)によって設立された都市です(なお、創設者をゴンサロ・デ・アルバラード〈Gonzalo de Alvarado〉とする説もあります)。当時スペインは中米全域の支配を進めており、植民地統治を円滑に行うための新たな拠点を探していました。その中で選ばれたのが、中米のほぼ中央に位置し、太平洋とカリブ海の中間にあたるこの地、グラシアスでした。
サン・クリストバル要塞(Fuerte San Cristóbal)
しかしこの地域は、ホンジュラス最大の先住民族であるレンカ族の土地でもありました。レンカ族は当時、国内でも最大規模とされる反乱を起こしており、スペインの征服に対して強く抵抗していた民族です。彼らはホンジュラス最高峰であるセラケ山などを拠点とし、険しい山岳地帯を活かして、征服軍に対する抵抗を続けていたと伝えられています。
なかでもレンカ族の首長レンピラは、現在のレンピーラ県周辺で生まれ、数千から数万とも言われる先住民を束ね、自ら先頭に立って戦い続けた人物として知られています。その存在は、現在でもホンジュラスにおける抵抗と誇りの象徴とされています。最終的に1536年、レンピラは戦いに敗れ、レンカ族は統率を失うこととなりました。その結果、この地域を含むホンジュラス中西部一帯は、完全にスペインの支配下に置かれることとなります。
中央公園のレンピラ像(Parque Central Gracias)
この地域で本格的な植民地統治が始まると、スペイン国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)が制定した「新法(Leyes Nuevas)」に基づき、植民地行政を監督するための機関として「王立裁判所」が設置されることとなります。この裁判所は、総督府による統治が適切に行われているかを監視する役割を担っていました。
現在のメキシコ・チアパス州からコスタリカに至るまでの広大な地域は「グアテマラ総督領」という行政単位で支配されており、そこを管轄する総督府を監視する裁判所が必要になりました。その最初の設置地として選ばれたのが、ここグラシアスです。中米のほぼ中央に位置する立地条件に加え、都市整備が始まったばかりで行政対応がしやすかったことも、選定理由のひとつとされています。
1544年5月16日、グラシアスに「コンフィネス裁判所(Audiencia de los Confines)」が設置されました。当時は総督と裁判所の長を同一人物が兼任することが認められており、その結果、グラシアスは実質的に中米全域を統括する行政の中心地となりました。しかし、当時の総督府が置かれていたアンティグア・グアテマラから距離が離れすぎていたことが大きな要因となり、この裁判所はわずか5年で移転されてしまいます。
コンフィネス王立裁判所跡(Real Audiencia de los Confines)
王立裁判所の移転後、グラシアスは一時的に衰退していくかに思われました。しかし町はその後も人々の手によって発展を続け、住民の増加とともに都市としての整備が進められていきました。こうした点からも、グラシアスが周辺地域を結ぶ交通・交易の拠点として、引き続き重要な役割を担っていたことがうかがえます。
17世紀には、市議会や国王直轄の牢獄(現在の旧軍兵舎)が建設され、町としての機能が確立しました。また、小麦や藍、綿花、豆類などの農産物を、グアテマラやエルサルバドルへ輸出する交易の町としても栄えていました。18世紀に入るとタバコ葉の生産が盛んになり、その品質はスペイン王室からも高く評価されたと伝えられています。
しかし1774年、ホンジュラスを襲った大地震により町は甚大な被害を受けます。さらに1780年代にはタバコ産業が停滞し、現在のサンタ・ロサ・デ・コパン周辺で大規模農園と王立工場が発展したことで、グラシアスに住んでいた有力な名家の多くがサンタ・ロサへ移り住むようになりました。
1774年の大地震後に修復されたラ・メルセド教会
(出典:Rivera, J. & Romero, R. (2009). Breve historia de los templos coloniales de la ciudad de Gracias a Dios. Tegucigalpa: Ediciones Guardabarranco. p. 28.)
1823年、中央アメリカ連邦共和国がスペインから独立します。この際、町の名称は「グラシアス・ア・ディオス」から、現在の「グラシアス」へと改められました。その後1838年、ホンジュラス州は連邦共和国から脱退し、ホンジュラス共和国として独立国家の歩みを始めます。しかし独立後の中米は政治的に不安定な時代を迎え、国境に近く人口も多かったグラシアスは、その影響を大きく受けることとなりました。
当時、ホンジュラス・エルサルバドル・グアテマラの間では派閥同士の争いが繰り返され、アシエンダ(大規模農園)や商店に対する略奪や放火が頻発していました。こうした情勢を受け、1840年、当時のホンジュラス大統領でグラシアスにゆかりのあるフアン・リンド(Juan Lindo)は、町の防衛拠点として要塞の建設を命じます。
計画は資金不足などにより遅れ、最終的に1863年、「サン・クリストバル要塞(Fuerte San Cristóbal)」が完成しました。
1940年のサン・クリストバル要塞
(写真:Mancomunidad COLOSUCA)
20世紀初頭、グラシアスでは町の整備が進み、現在まで残る建物の多くがこの時期に建設されました。しかし1915年12月26日、グラシアスを大地震が襲います。
この地震と余震により、町に無傷の建物は一つも残らず、ほとんどが倒壊したと伝えられています。住民の多くは周辺地区へ避難し、発生翌日の報告書には「グラシアスはもはや存在せず、再建の望みすらない」と記されるほど、被害は甚大なものでした。なお、倒壊を免れた建物は市内にわずか2軒のみで、そのうちの1軒が現在博物館として利用されている「カサ・ガレアーノ(Casa Galeano)」です。
当初、委員会は町の再建に否定的でしたが、数世紀にわたりこの地に根付いてきた住民たちは復興を選びました。復旧は早く、最初に再建された現在の旧軍兵舎は、地震発生からわずか3か月で復旧されたとされています。
1950年の軍兵舎(Cuartel De Las Fuerzas Armadas)
(写真:Mancomunidad COLOSUCA)
1920年代に入ると、グラシアスは徐々に活力を取り戻していきます。公的施設の再建が進み、1927年には市内に街灯が設置されました。1930年代半ばには人口が約5,600人まで回復し、教育機関の整備も進められます。さらに1936年には上水道システムが整備され、町の基盤が築かれていきました。また1943年にはグラシアス県からレンピーラ県へと名称が変更されました。
21世紀に入ると、これらの歴史的建物は改修され、現在まで大切に受け継がれています。2010年代後半からは、歴史や自然を生かした観光地として市全体が動き始めました。コロナ禍を経た現在、グラシアスは改めて観光都市としての歩みを進めています。
数々の出来事や困難を乗り越え、今のグラシアスがあります。先住民族、征服者、そしてこの地で生き続けてきた人々。その重なり合う歴史と町への深い愛情が、現在のグラシアスを形づくっています。
先住民族の日のイベント
(写真:Mancomunidad COLOSUCA)
本記事のグラシアスの歴史は、グラシアスとその周辺地域の歴史・観光・インフラ・都市整備などを行う地域連合、Mancomunidad COLOSUCAが発行した資料「Proyecto Actualización Instrumentos de Gestión del Centro Histórico de Gracias, departamento de Lempira(著:Gabriel David Mejía Sú)」を参考に作成しました。